差別と偏見について思うこと

 差別と偏見は、ヒトが抱える最も難しい問題の一つだと思います。なぜなら、おそらく僕たちは、差別と偏見を減らすことはできるけれど、なくすことができないからです。これから詳しく説明しますが、「差別と偏見をなくす」のは多分無理なのです。それだけでなく、「差別と偏見をなくす」という目標は、どうやらヒトにあまり優しくありません。僕は、それを取り下げて、その代わりに「差別と偏見を減らす」を現実的な目標に掲げたほうがいいと感じています。そのほうが、ヒトの身の丈に合っているように思うのです。

 なお、ここでは、偏見(差別感情)は「あるカテゴリーの人々に対する否定的な感情や認知」で、差別は「あるカテゴリーの人々が損をすること」と定義します。つまり、「損得」が起こって、はじめて差別と見ます。世の中では、この偏見を差別と呼ぶこともよくありますが、ここでは区別します。ただし、引用に関しては引用元の表記に合わせます。そのため、ちょっとややこしくなるところもありますが、ご了承ください。

 それから、これからお話しするのは重いテーマで、なおかつ相当の長文です。そういうのが苦手な方はぜひパスしてください。あと、僕は別に、皆さんの気持ちをどん底に落とそうとしているわけではありません。僕は僕なりに、社会に役立ちたいと思いながら書いています。その点は何卒ご理解をいただけたら幸いです。

 ところで、「まなざしの差別」という言葉をご存知でしょうか。まなざしの差別とは、視線だけで行う最小単位の偏見(差別感情)の表出のことです。例えば、ホームレスではない人がホームレスと目が合って、「あ、ホームレスだ」「あ、ホームレスだと思われた」とお互いを認識したとき、まなざしの差別は完成します。たったそれだけで偏見になると、栗原彬さんは言っています。少々難しくなりますが、栗原さんの定義は次のようなものです。(以下、『講座差別の社会学2 日本社会の差別構造』(弘文堂)所収 栗原彬「差別とまなざし」より)

 はじめにまなざしがある。まなざしが他者に注がれて自己とのちがいを識別する。ちがいを認めたまなざしは自分自身へ投げ返される。そのつどの状況の中で、他者に投げられたまなざしは、瞬時に、そのつどの自他のアイデンティティを振り分ける。

 しかし、まなざしはちがいの識別にとどまらず、その先に行く。まなざしは、そのちがいに力関係をもちこむ。上下、優劣、貴賤、正常―異常、中心―周縁、完全―欠如。いずれにせよ、まなざしは、一方のアイデンティティには価値付与的に、他方のアイデンティティには価値剥奪的に働く。まなざしが権力的関係をつくり出し、そのことが関係の両端にある人間の総体を傾斜的に、非対称的に規定するとき差別が完成する。

 この定義が何を言っているか、わかりやすく説明します。ホームレスと目が合ったとき、「あ、ホームレスだ。かわいそう」「近づきたくない」「ああはなりたくない」とかいったことが、瞬間的に頭をよぎったことはないですか? それが、まなざしの差別です。相手を見て、自分と相手との間に明確な違いを認識し、自分が少しでも上位に立ったとき、そこにはもうまなざしの差別が生まれているのです。「かわいそう」と思うのも、貴賤の力関係を持ち込むという意味で、まなざしの差別の一種です。もちろん、「近づきたくない」や「ああはなりたくない」といった思いは、頭をよぎったとしても、すぐに理性が否定するでしょう。「かわいそう」に関しては、おそらく理性は否定しません。それほど悪いこととは思われていないからです。

 もちろん、まなざしの差別の対象は、ホームレスだけではありません。身体や容姿、性格や能力、規範からの逸脱、個人の履歴、人種・民族・国籍・宗教などが、まなざしの差別の頻度の高い標識となります。僕らは普段、さまざまな人を見ては、さまざまな基準で、無意識にまなざしの差別をしている可能性があります。

 「目が合っただけで偏見とは、さすがに厳しいんじゃないか?」と感じるかもしれません。確かに厳しいのですが、僕は栗原さんの言うとおりだと思います。差別と偏見は、まなざし(あるいはまなざしと同レベルの感覚)から始まり、まなざしに帰着するのです。ですから仮に、あらゆる差別・偏見の問題が何らかの方法で解決したとき、きっと最後にまなざしの差別が残るでしょう。

 まなざしの差別は微細なものですが、たとえばホームレスは、まなざしの差別を日々無数に受けており、それが影響して精神障害を起こしている可能性があります(ホームレスは精神障害の割合が非常に高いと言われています)。実際、まなざしの差別のような微かな偏見・差別が、人に危害を加えているという報告があります。北村英哉・唐沢穣『差別や偏見はなぜ起こる?』(ちとせプレス)によれば、少数派集団の人たちが偏見や差別を受けやすい地域では、彼らの死亡率まで高くなることが確認されています。なぜなら、自分自身が偏見や差別の対象になっていると感じることは、その人の精神的健康と身体的健康をしだいに脅かしていくからです。わかりやすい差別や偏見だけでなく、微細な偏見も危険かもしれないのです。まなざしの差別は、決して軽く見ることのできない問題かもしれません。

 しかし、残念ながら、僕らはまなざしの差別を根本から解決することができないと思います。なぜなら、栗原さんの言うとおり、それは「識別の続き」だからです。進化心理学の真似ごとをしてみると、僕たちの祖先は、目の前に現れたのがクマなのかオオカミなのか、それともウサギなのかを瞬時に識別しなければ生きられませんでした。その能力はいまも必要です。目の前に現れたのが近所のおじさんなのか恋人なのか、それとも包丁を持ったヤバイ奴か、暴走する自動車かを識別することは、現代でも生きていく上で欠かせません。そして、目の前の対象物が弱者であれば、それがそのまま「ちがいの識別」になり、「まなざしの差別」につながっていくのです。だから、まなざしの差別はなくならないと思います。なくすためには、人類を滅亡させるほかにないでしょう。

 僕は最近、まなざしの差別は「煩悩」の一種だと考えるようになりました。それはどうしようもなく頭の中に浮かんでくるものなのです。僕には、このレベルで「偏見を生み出す心の構造」があります。もちろん僕だけでなく、それはあなたにも、おそらくほぼすべてのホモ・サピエンスにもあります。これは半ば本能的、身体的な反応で、決して手放すことができません。

 僕の家の近くには特別支援学校があり、毎日のように、そこに通う人たちとすれ違っています。もちろん僕には、おそらく人並みに偏見を持ってはいけない、差別してはいけないという理性の働きがあり、少なくとも理性のレベルでは、彼らに偏見を持ったり、差別したりはしていないはずです。先に触れたとおり、「かわいそう」と思うのは彼らの上に立つ行為だから、僕は彼らを「かわいそう」とも思いたくありません。極力対等な関係でいたいと思っています。しかし一方で、僕はただ彼らを見つめるだけで、まなざしの差別をしてしまう可能性があります。自分の心の動きを観察するとよくわかりますが、彼らを見て、いつも「かわいそう」と思わないのは本当に難しいことです。だから、僕は彼らとすれ違うとき、目線をどこに持っていってよいか、わからなくなります。だからといって、目を逸らすのは、それはそれで問題です。結局、できるだけ普通にしているのですが、内心は困り果てています。そうしたことを意識しなければよいのかもしれませんが、意識しないからといって、まなざしの差別が減るわけではありません。

 この問題におそらく出口はありません。僕らはまなざしの差別、つまり微細な偏見を止めることができないのです。もちろん、まなざしの差別にも個人差はあるでしょう。僕は臆病者で始終あたりをキョロキョロしているタイプですから、まなざしの差別を多めに振りまいているはずです。そのことをどうにかしたいと思っていますが、まなざしを減らすことすら簡単ではありません。正直に言って、僕は自分のまなざしの差別をどうしていいのか、全然わかりません。

 なお、「まなざしの差別」という概念の源流には、社会学者・見田宗介さんの『まなざしの地獄』(河出書房新社)があるだろうと思います。見田さんは、青森から上京した後、出生地や顔のキズをからかわれたことがきっかけで仕事を辞めて転落し、最終的に犯罪を犯してしまうN・Nという一人の青年に注目しました。彼が、服装、容姿、持ち物、出生、学歴、肩書きなどの表相性において、ひとりの人間の総体を規定し、予科する「都市の他者たちのまなざしの囚人」であったこと、「戸籍」をもって差別する社会の構造がN・Nを絶望へ追いやったことを描いたのです。

 N・Nが、たえずみずからを超出していく自由な主体性として、〈尽きなく存在し〉ようとするかぎり、この他者のまなざしこそ地獄であった。

 この文章が記されたのは1973年のことですが、40年以上経ったいまも本質はまったく変わっていません。僕らの社会は、相も変わらず「他者たちのまなざしの地獄」に違いありません。無数のまなざしの差別が、この世には存在しています。

 先ほど引用した『差別や偏見はなぜ起こる?』によれば、社会心理学では、以上で述べたことを、カテゴリー化とステレオタイプという2つの概念で少し違う角度から説明しています。

 「カテゴリー化」とは、「犬」「猫」「ホームレス」などを瞬時に区別するプロセスです。つまり、違いの識別ですね。このカテゴリー化を進めていくと、やがて「ステレオタイプ(典型的なイメージ)」が形成されます。ステレオタイプは、基本的には私たちの生活に必要なものです。例えば、「赤ちゃんは弱い」というステレオタイプを認知するからこそ、僕たちは赤ちゃんに優しく接しますし、「自動車は危険だ」と思うから、僕らは車道に飛び出ないようにするわけです。私たちは、このようにできるだけ単純なイメージを描くことで思考を円滑にし、時間をかけずに容易に判断し行動することができるようになります。

 ただ、ときに「事実無根のステレオタイプ」が混じることがあり、それが偏見につながっていくのです。たとえば、「子どもはバカだ」という事実無根のステレオタイプを持っている人は、子どもに対する偏見を持つようになります。

 つまり、差別・偏見の一部分は、私たちが生活する上で欠かせない編集技法である「ステレオタイプ」の副作用から生まれているのです。しかし、事実無根のステレオタイプをすっかりなくすというのは、無理な注文です。さまざまなことで忙しい僕らに、星の数ほどあるステレオタイプを一つひとつ検証していくような時間はありません。

 社会心理学ではもう一つ、「内集団びいき(集団間バイアス・内集団バイアス)」も差別・偏見の大きな要因と考えています。簡単に言えば、私たちは、自分が所属する集団の内側をひいきする傾向があり、反対にその外側に対しては、差別・偏見の目を向けやすいというのです。しかも、内集団びいきは自覚しにくいと言います。

 内集団びいきについては、個人的にはよく腑に落ちます。僕は基本的に「はぐれもの」で、内集団にいることが少ないので、よく敵視され、小さな偏見を受けてきたからです。もちろん、その原因の一部が自分にあることもわかっていますし、逆に僕自身が内集団びいきをしたこともあるだろうと思います。別に自分は悪くないというつもりはありません。ただ、自分のことでも誰かのことでも、僕はこれまでに何度も、内集団びいきが原因で差別・偏見が起こる様子を見てきました。これはもう本当に、日常的にどこでも起こっていることで、何も珍しいことではありません。皆さんも、周囲を少し見渡せば、すぐに事例が見つかるはずです。

 内集団びいきは、内集団と外集団をただ無作為に分けただけの「最小条件集団」でも起こってしまう極めて強力なバイアスで、誕生日が自分と同じだというだけで他者に協力しようとすることもあるそうです(『差別や偏見はなぜ起こる?』)。その根源には、自分たちの集団を、そして自分を守ろうとするヒトの本能があるのでしょう。おそらく僕たちは、内集団びいきを止めることもできません。

 勘違いされるとよくないのではっきりしておきますが、僕は人種差別、性差別、LBGT差別、弱者差別など、現代社会が倫理的に否定している差別・偏見を意識的に表出する行為を肯定するつもりはありません。たとえば、政治家が「同性愛は趣味」「LGBTは生産性がない」みたいな発言をするのは当然良くないことで、擁護の余地はないと思います。

 ただ一方で、「無意識的な差別・偏見をどこまで責められるのか?」というのは、難しい問題だと思います。

 このことを考えるとき、いつも思い出すストーリーがあります。昨年(2017年)の夏に観たホエイという劇団の「小竹物語」の1シーンです。そのお芝居の途中、ごく普通の何人かの男女が話しているうちに、「目玉焼きに何をかけるか」という話題になりました。「やっぱりソースでしょう」「いや、しょうゆだね」と意見が分かれて、かなりヒートアップしてきたところに、ある女性が「…私、雨水」と言ったのです。そこから話は、「雨水はないわ」「信じられない」と雨水を否定する展開になっていきました。(※セリフは正確ではありません。ご容赦を。)

 僕はこれを観たとき、「偏見だ」と思いました。アフタートークで、脚本家・山田百次さんは「差別(偏見)として書いた」と語っていました。目玉焼きに雨水をかけるというのは貧困の標識で、それを否定するのは、微妙ではありますが偏見と言えるでしょう。ここで僕が気になったのは、「話に夢中になってしまい、登場人物が自分たちの偏見に気づかなかった」ことと、「偏見の内容が微妙である」ことです。僕はいま、こんな風に仮説を立てています。日々、本能的・身体的に微細な偏見を持つ可能性がある僕たちは、それらのすべてを理性で打ち消すことはできないのではないか。理性の間隙を縫って、微細な偏見が「小さな偏見」に育ち、ふとしたときに表に出てしまうのではないか。この「雨水の偏見」のように、誰もが普段、何の気になしに、無意識に、こうした微妙な偏見を表出しているのではないか。そして、そのことに気づいていないことも多いのではないか。

 僕は、雨水の偏見のようなことは、世界中で日々誰もが起こしているに違いないと思っています。僕自身、振り返ってみて何度かは明らかに身に覚えがありますし、見逃したものが他にいくつもあるはずです。こうしたことを考え始めてから、僕は、自分の口から小さな偏見が出た途端に気づくことが増えてきました。こうした「無意識の偏見」は、まなざしの差別を止められない僕らが、避けられないことではないかと思います。

 ヘイトスピーチや先ほどの政治家の発言のような、明確で意識的な差別・偏見は責められて当然だと思いますが、こうした無意識で小さな偏見はどうしたらよいのでしょうか。正直に言って、僕にはよくわかりません。なぜなら、誰もが自分の気づかないところで同じようなことをしている可能性があるからです。果たして誰が、どの程度までなら、それを責められるのでしょうか。

 次に、差別に関して、おそらくあまりにも自明で、あまりにも普通になってしまっているために、あまり語られない問題について考えたいと思います。それは、能力によって人を差別する「能力差別」の問題です。「能力差別」は、一般的な差別とは分けたほうがよいと思うのですが、ほかの言葉が思いつかないので「能力差別」とすべてカッコ書きで記します。

 いま、日本社会や日本企業は、これまでの日本的経営や日本的な社会のあり方を捨てつつあり、グローバル水準に合わせて、性差別・LGBT差別・人種差別などのあらゆる差別を減らし、同時に「適切な競争環境」を重視する流れに乗っているように見えます。

 この方向性に、僕は何一つ異論がありません。さまざまな制度を導入すれば、それらの差別をある程度は減らすことができるだろうと思いますし、それは良いことなのだろうと思っています。ただ、それですべての差別が減るというのは間違いだと思います。なぜなら、競争環境がある限り、そこには「能力差別」が残るからです。

 僕は、ある程度の「能力差別」は仕方のないことだと考えています。この社会が分業制を取っている以上、競争することが社会発展やビジネス発展の原動力になっている以上、努力・成長・成功が重要な社会に生きている以上、適切な競争環境=「能力差別」は、世の中に必要です。もし適切な競争環境がなくなれば、努力しないヒト・成長しないヒトが増えるでしょう。それが良いこととは思えません。しかし一方で、競争環境がある以上、その裏には差別的な構造があることも確かです。残念ながら、僕らがこの矛盾から解放される見込みは、おそらくありません。

 この話は、スポーツを例に挙げるとわかりやすいと思います。サッカーのワールドカップやオリンピックなどに出場する選手たちは、誰もが競争を勝ち抜いてきた猛者たちです。僕らはそうした皆さんのプレイを見ることを楽しんでいるわけです。僕も、何度も真夜中に起きて、先のワールドカップを堪能しました。ただ当然ながら、そこには出場できなかった大勢の選手がいます。それは競争=「能力差別」の結果です。

 「能力差別」をなくすのは、極めて難しいことです。もしこの世から「能力差別」を徹底的になくそうと思ったら、社長からアルバイトまで世界中のワーカーの給与を一律にして(能力に応じて給与を変えるのは「能力差別」です)、ありとあらゆる賞を廃止し(賞は「能力差別」です)、スポーツの形を大きく変えなくてはなりません。受験や資格などもなくなるでしょうし、ほかにもさまざまなことを大きく変えなくてはならないでしょう。どうでしょうか。そんな世の中が実際にくるでしょうか。また、たとえ来たとして、それが本当に良いのでしょうか。いまの社会形態の延長線上でいく限り、僕には想像がつきませんし、良いことだとも思えません。

 僕には、ライターとしてもっとライティングの腕を磨きたいという気持ちがありますし、その結果、より多くのお金が稼げたら嬉しいですし、何か称賛を得られたり、賞のようなものをもらえたりしたら喜ぶでしょう。きっと僕だけでないと思います。競争環境に身を置く多くのヒトが、多かれ少なかれ、そうした欲望で動いているはずです。そして、その欲望で動いている限り、僕も皆さんも、どこかで「能力差別」に加担しており、その差別者でも被差別者でもありえます。それは現代社会で生きる上で、ほとんど避けようのないことだと思います。

 一方、「能力差別」のもとでは、能力の低いヒトが傷つくのも確かです。何年か前、かけっこの順位づけをなくした小学校があると聞いたときは驚きましたが、「能力差別」の観点から言えば、それは理にかなっています。意外と、世界はこれからそちらへ進んでいくのかもしれない、と最近は思っています。

 また実は、世の中には「能力差別」を軽減する施策がいくつもあります。例えば、オリンピックに対するパラリンピックやスペシャルオリンピックスがそうですし、最近導入する企業が出てきている「ノーレーティング(社員のランク付けの廃止)」などもそうした施策の一つです。これらはすべて素晴らしいことだと思います。こうした施策がいくつもあるということは、多くのヒトが、口にはしないけれど、実は「能力差別」のことをよくご存知なのだろうと思います。

 とはいえ、いくら軽減したとしても、それで「能力差別」がなくなることはありません。「能力差別」は競争原理とともに、現代社会の中心に居座り続けており、これをなくすのは不可能に近いと思います。

 ただし、将来的な夢として、「能力差別」が本当に少なくなることもありえるのかもしれないとは思います。たとえば、「ティール組織」が当たり前の「ティール型社会」になって、しかもそれらの組織が、「社員の価値はすべて等しいのであり、戦略を考えることであれ、床を磨くことであれ、愛情を持って真剣に取り組まれている仕事はすべて等しく処遇されるべきだ」(フレデリック・ラルー『ティール組織』英治出版)と考えるようになり、創業者にも新入社員にも、掃除のおじさん・おばさんにも同じ基準の給与を払うようになったとき、「能力差別」はかなり少なくなるのではないかと思います。しかし、本当にそんな社会を実現できるのかと言われても、僕には答えようがありません。僕が確実に言えるのは、ティール型社会に至るまでにはいくつものパラダイムシフトを超える必要があり、それは決して簡単ではないだろうということだけです。なお、ティール組織に関してはこちらのページか、あるいはもっと詳しく知りたい方はフレデリック・ラルー『ティール組織』をお読みください。

 あるいは、これもどうやるのかはわかりませんが、原始社会の要素をうまく取り入れたら、僕らはもしかすると、「能力差別」を減らすことができるのかもしれません。奥野克巳さんによれば、ボルネオ島で狩猟採集を主生業とする「プナン」という民族は、個人に責任を求めたり、「個人的に」反省を強いるようなことをしないそうです。また、失敗や不首尾があれば、話し合いの機会を持つが、そこでは、個人の力量や努力などが問題とされることはまずないのです(奥野克巳『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』亜紀書房)。つまり、彼らは努力・成長・成功のストーリーに縛られていないのです。現代社会の僕たちから見れば、これはこれで奇想天外な話かもしれませんが、こうした社会のあり方も不可能ではありません。もちろん、だからといって、プナンなどの社会に差別・偏見がないなどと言うつもりはありませんが。

 それから、噂されている通り、近い将来にAIやRPAなどによって本当に数多くの仕事がなくなり、働くヒト自体が減り、働くことが当たり前でなくなったときには、競争環境の前提が崩れますから、話は変わってくるのかもしれません。

 いずれにしても、いまの社会の形が相当変わらない限り、「能力差別」の根本的な解決はできないでしょう。努力と成長を規範とする社会には、必ず「能力差別」がついて回ります。

 改めて言いますが、僕は性差別・LGBT差別・人種差別などを減らし、「能力差別」については諦める(無視する)という現代社会の方針に何ら異論はありません。ただ、それが実現できたら、社会から差別が一掃されるというのは間違いです。少なくとも「能力差別」は残るのですから。すべての差別をなくすのは、途方もなく難しいことに違いありません。

 また、「能力差別」に関連するものとして、「学歴差別」があります。これまた、なくすどころか減らすのも難しいものです。むろん、いまの社会では、学歴差別が表立ってなされることや語られることは基本的にありません。高卒だから、中卒だからと面と向かって偏見・差別を表明する人は、現代日本にはかなり少ないでしょう。しかし、その実、学歴差別ははっきりと存在しています。吉川徹さんは、『日本の分断』(光文社新書)で、そのことを明らかにしています。

 吉川さんは数々のデータを駆使して、いまの日本が「学歴分断社会」であり、なかでも「若年非大卒男性」が極めて不利な境遇にいて、「勝ち星がつかない」ことを示しています。しかし、女性活躍推進や高齢者雇用推進はよく話題になりますが、若年非大卒男性の支援や活躍推進というのは、あまり語られていないようです。僕はそれは、学歴差別が他の差別に比べると、能力差別に近いからだと考えています。結局、学歴は今も昔も能力を示す基準の一つなのです。若年非大卒男性の活躍推進も必要でしょう。しかし、この問題はやはり他の差別よりも後回しにされるでしょうし、根本的な解決も難しいと思います。

 以上、さまざまな側面から、差別と偏見について見てきました。ネガティブな話ばかりをしてきましたが、別に皆さんを落ち込ませたりすることが狙いではありません。そうなってしまったら、申し訳ないと思います。僕が伝えたいのは、「差別・偏見を減らすことはできるが、なくすのは難しい」というごくシンプルなことです。僕たちはおそらく、まなざしの差別を、無意識の偏見を、内集団びいきを、「能力差別」を止めることができないのです。

 もっと現実的なことを言えば、差別・偏見を減らすのさえ、決して簡単ではありません。それは、男女雇用機会均等法を定めてから30年以上経ったのに、日本社会がいまだに女性活躍推進施策を必要としているという現状一つ見ても、明らかなことだと思います。

 だから僕は、「差別・偏見をなくそう」と簡単に言うのは、止めたほうがいいと思うのです。その代わりに、「差別・偏見を減らそう」を掲げたらいいと思っています。

 なぜそこにこだわるかと言えば、差別と偏見の問題には、ある程度の「寛容さ」が必要だと思うからです。僕がこれまでに話してきたことが当たっているなら、そもそも僕らは日々、自分が持っている偏見を許しながら、自分がどこかで差別に加担しているのを許しながら生きています。たとえそのことに無自覚であっても、そうなのです。もし差別・偏見の一切が許せないヒトがいれば、そのヒトは自殺する以外にありません。なぜなら、そのヒト自身の差別・偏見が決してゼロにはならないからです。僕らはいますでに、自分の差別・偏見に関して、ある程度の寛容さを持ちながら生きているのです。

 ところが、「差別・偏見をなくす」ことを目指すと、その寛容さがやがて失われていく可能性があります。世の中に、許すことのできない差別や偏見があることは確かでしょう。けれど一方で、すべての差別と偏見を許さないという態度を取っていくと、その先には、「あれも偏見だ」「あれも差別だ」と細かいところまで糾弾し合う「無限地獄」が待っています。しかも、糾弾する本人たちは、自分の偏見を許しながら、他人を糾弾しているのです。それは果たして、倫理的に良いことなのでしょうか。その無限地獄は、人間社会にとって良いことなのでしょうか。僕にはそう思えないのです。

 差別と偏見をひたすら糾弾していけば、おそらくヒトは、寛容を失って人体を傷つける免疫細胞のように、現代の人間社会そのものを傷つき始めるのではないか。どんどん生きにくい社会になっていくのではないか。僕にはそういう不安があります。

 では、差別・偏見をどこまで糾弾し、どこまでを寛容したらよいのでしょうか。その一線を引くことはとても難しいことで、僕にはどうしたらよいのか、いまのところ全然わかりません。しかし、少なくとも、自分が生きる上で許しているレベルまでは、他人の差別・偏見を許すのが筋だろうとは思います。

 皆さんがどう思っているかはわかりませんが、僕自身は、ここまで自分の語ってきたのは、それほど素っ頓狂なことではないと思っています。なぜかというと、差別・偏見の研究者の方々や、差別・偏見に満ちた現場のまっただなかにいる皆さんの中には、「差別と偏見は減らせるけれど、なくせない」と考える方が多いように見えるからです。

 その証拠をいくつか紹介すると、まず序盤で何度か登場した社会心理学の研究書『差別や偏見はなぜ起こる?』には、次のように書かれています。

 偏見は人間に備わった適応的な心理的機制の副産物であり、おそらく完全になくすことはできないだろう。しかし、本領域の研究成果は、個人と社会が偏見を解決すべき問題ととらえたり、人と人が互いを深く知る機会を得ることで、いまよりも偏見のない世界を実現できることを示している。

 また、社会学者の好井裕明さんは、『差別原論』(平凡社新書)の中で、誰であれ、どのような場所に生きていようと、差別してしまう可能性があるからこそ、”普通の世界”のなかに”息づいている”さまざまな差別や差別の兆しにできるだけ気づいて、それらと向き合い、自分の存在を少しでも”変え続けたい”と語っています。

 さらに、我が故郷・北海道が誇る(といっても僕の実家からは相当離れていますが)、精神障害などをかかえた当事者の地域活動拠点「べてるの家」の向谷地生良さんは、こう言います。

 「誤解や偏見」は、誰かがもっていて誰かがもたないというものではない。誰もがいつも誤解や偏見にまみれながら、信じたり疑ったり、自信を失ったり得たりしながら生きているものなのだ。精神障害という病気を体験した当事者も「精神分裂病なんて最低だ」という幻聴に苛まれながら、自分の本当の価値を見出すまでにどれほどの時間と出会いと葛藤を費やしたことだろう。(浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』医学書院

 僕がさまざまな本にあたって感じたのは、差別・偏見に真剣に向かっていくほど、「差別と偏見はなくせない」ことがはっきりと見えてくるのではないかということです。このことをどう考えますか?

 「べてるの家」について、もう少し触れたいと思います。「べてるの家」は1991年に、町の人たちとともに「精神障害について学ぶ会」を立ち上げたときから、なんと「偏見・差別大歓迎!」をキャッチフレーズに掲げています。そのくだりについて、『べてるの家の「非」援助論』を長々と引用します。

 一九九一年五月、記念すべき最初の集いのタイトルは「偏見・差別大歓迎! けっして糾弾いたしません」というものだった。べてるの挨拶は次のようなものだった。

 「日ごろたいへんお世話になり、ご迷惑をおかけしております。救急車は呼ぶし、パトカーは駆けつけるし、新聞配達をしているメンバーはいつも、花畑があろうと野菜が植えられていようとも最短距離で通り、しかも所かまわず立ち小便をしまして、ひんしゅくを買っております。今日の集会は、そういうことも含めて、ふだんべてるに対して感じていること、経験したこと、なんでもかまいません。私たちに感じていることを遠慮なく話してください。今日は、『偏見・差別大歓迎!』ということで考えております」

 この集会には、町の人たちが数十人も来てくれた。円座を組み、自己紹介からはじまった。

 「精神分裂病の○○です」

 「アル中の○○です。みなさんにいちばんご迷惑をかけています」

 「入退院を繰り返しております」

 こんな感じでべてるのメンバーは、病名とともにみずからの体験を紹介した。町の人たちも遠慮なく、「じつはここに来るまでは、べてるの人たちが正直いってこわかった」と言ってくれた。

 笑いの絶えない、じつに楽しい集会となった。それを機会に、町の人たちとの絆が深まっていった。

 以来、べてるでは「偏見をなくそう」ではなくて、次のように町の人たちに言いつづけてきた。

 「偏見? ああ、あたりまえです。差別? みんなそうなんですよ。誤解? 誤解もよくあることです。病気をした私たちでさえ、この病気になったらもうおしまいだなどという誤解をして、慣れるまでけっこう時間がかかりました。ですから、みなさん大丈夫です。あまり無理して誤解や偏見をもたないように努力したり、自分を責めたりもしないほうがいいんです。体をこわしますから」

 僕は、ヒトが差別と偏見を乗り越えて仲良くなるには、べてるの家のように「偏見・差別大歓迎!」と掲げるのが、最良の方法ではないかと感じています。そこまでのことは難しいとしても、少なくともある程度、差別・偏見を許し合う場を用意する必要があると思います。反対に、どこまでも差別と偏見を許さない場では、誰もがよそよそしくなり、関係を持たなくなっていくに違いありません。自分が責められないようにするためには、そうせざるを得ないからです。それが良いとは思えません。

 とはいえ、この社会が、べてるの家と同じくらい差別・偏見に寛容になることが、決して簡単でないこともわかっています。たとえば、仮にいま、とりたてて弱者ではない僕のような者が、うかつにも「偏見・差別大歓迎!」などと言えば、四方八方からバッチンバッチン叩かれるのは間違いありません。では、いったいどうしたらよいのでしょうか。今後はそこのところをよく考えてみたいと思います。

 最後にお伝えしたいのは、この文章のベースは、ある一冊の本に依っているということです。中島義道『差別感情の哲学』(講談社学術文庫)です。「まなざしの差別」も「能力差別」も「学歴差別(知的能力差別)」も、ここに書かれていたことです。僕が漠然と思っていたことを、中島さんはずっと手厳しく、ずっと明晰に書いていました。僕はかなり強く共感し、勇気を得ました。この本を抜きにして、現代の差別と偏見(差別感情)の問題を考えることはできないと思います。僕の文章が気になったなら、ぜひ読んでいただけたらと思います。僕が触れていないこともまだまだたくさんあって、ビリビリ痺れること請け合いです。では、この本の結末近くの一節を紹介します。

 すべての行為に差別感情がこびりついていることを認めない限り、自分は差別していないという確信に陥っている限り、自分は「正しい」と居直る限り、人は差別感情と真剣に向き合うことはないであろう。

 実に厳しい見方ですが、おっしゃるとおりだと思います。差別と偏見の問題を考えるには、まずは自分自身がどのような偏見、差別感情を持っているかを見つめるところから始めるほかにないと思います。

 その意味で、世界の差別と偏見を減らす一番手っ取り早い方法は、世界中の全員が仏教徒となり、日々、自分の煩悩とともに、自分の内側にある差別と偏見を日々見つめ続けることではないかと推測しています。このことについては、そのうちページを改めて。

 ここまで僕が述べてきたことがおおむね間違っていて、差別と偏見はなくなるものであればよいと思います。しかし、僕はいまのところ、そんな風には全然考えられないのです。