悲しみは消えてもストーリーは消えない

 これから書くのは、あるお芝居の感想ですが、その内容は、多くの人にも関係することだと思っています。なお、劇評のつもりはありませんが、劇評なのかもしれません。僕はその違いがよくわからないので、判断は読む方にお任せします。

 取り上げるのは、モダンスイマーズという劇団の「悲しみよ、消えないでくれ」という作品です。僕はこの作品を、2015年と2018年の2回見たのですが、2回目もやはり「素晴らしい」と思いました。もう少し言うと、「この主人公は、なんと愛おしいのだ」と感じて止みませんでした。これから展開する僕の話は、その一点に集中します。(なお、思いっきりネタバレします。それから、セリフなどは正しくない可能性が十分にあります。その点、何卒ご了承ください。)

 ちなみに、モダンスイマーズは、蓬莱竜太さんという人気の脚本家・演出家が以前から率いる劇団です。蓬莱さんはいろんなところで活躍されている方で、演劇界では売れっ子と呼んでよいだろう存在です。モダンスイマーズでは、その蓬莱さんの作品が比較的安く、気軽に見られます。しかも、おそらく蓬莱さんが一番やりたいことをやっている場なのだと思います。この比喩はかえってわかりにくくなるかもしれませんが、僕はモダンスイマーズは「ファクトリーブランド」に近いと思っています。ファクトリーブランドとは、普段は有名ブランドの下請けをしている実力あるデザイナーさんや工場が、つくりたいものをつくるために自分たちで立ち上げたファッションなどのブランドのこと。モダンスイマーズは、まさにそういった存在だと思います。

 「悲しみよ、消えないでくれ」の主人公・新山忠男は、2年前に他界した恋人・杉浦一葉のお父さん・寛治さんの山小屋に、一葉が死んでからなぜかずっと居候しています。一葉の死に悲しんでいる(らしい)忠男は、そこで寛治さんの手伝いをしながら、小説を書いていることになっています。ほかに、一葉の妹・梢ちゃんが一緒に住んでいます。新山と一葉はもともと大学の登山部仲間で、一葉の命日に、その登山部の先輩や仲間たち(貝谷浩一郎・貝谷ゆり子・紺野正志)が山小屋を訪ねてくるところから、ストーリーは始まります。そのほかに、この物語に登場するのは、山小屋に荷運びをしている夫婦(阿部陽菜・阿部友之)です。

 詳細はいろいろと端折って、僕が特に面白いと思ったところだけを説明していくと、一葉が死んだのは、忠男や登山部の仲間たちと登山をしている最中、一葉が一人だけ途中で下山して、その日に偶然、山のふもとの旅館で土砂崩れに遭ってしまったからでした。一言で言えば、一葉は運が悪かったわけです。しかし、物語が進むにつれて、運以外の事実がわかってきます。登山部の仲間の一人・ゆり子は、一葉がそのとき一人だけ下山したのは、忠男のプロポーズを一葉が断ったからだ、と言います。忠男はいったん、さまざまな意味で全員の同情を集めます。

 しかししかし、それは忠男がついた嘘だ、と知っている人物がいました。一葉の妹・梢ちゃんです。実は彼女は、一葉が死ぬ直前、たまたま山のふもとの旅館にいた一葉と電話で話していたのです。梢ちゃんによると、一葉が下山したのは、自分が妊娠したという事実を忠男に伝えたところ、忠男に「堕ろしてくれたら結婚する」と言われたからだと言います。「あんなやつには頼れないから、一人で生んで育てる、とお姉ちゃんは笑いながら話してくれた。そして、都会は楽しいから梢も降りておいでよ、と言っていた」といったことを、梢ちゃんは語ります。梢ちゃんがこのことを話したことで、物語は大きく展開していきます。

 さて、皆さんは、このおおざっぱなあらすじを聞いて、どう思うでしょうか。「忠男はどうしようもないやつだ」。はい、その通りです。それは間違いありません。そもそも忠男は、「小説家志望だけれども、実は小説を書いていない」という設定になっています。他の国ではどうなのか知りませんが、少なくとも日本では、これは最もダメな男の属性です。さらに、周囲の女にどんどん手を出すわ(ゆり子・陽菜とも関係がありました)、仕事はろくにできないわで、褒められるところはほとんどありません。このお芝居を見て、忠男をダメな奴だと思わない人は、多分いないでしょう。

 ただ、僕が興味をそそられたのは、忠男がダメかどうか、ではありません。忠男が「ストーリーにがんじがらめになっている」点です。ここから先は僕の推測が入りますが、忠男が山小屋に居候しているのは、もちろん小説が書けないことから逃れるため、厳しい社会から逃れるため、つまりモラトリアムでもあるのですが、それだけでなく、「悪いことをしてしまった」という罪の意識があるからです。特に、寛治さんに対する申し訳ない想いがそこにはあります。それは、真実がバレたとき、寛治さんに「刺してください。僕を殺してください」と自分の身体を差し出したことから、わかります。

 でも、よく考えると、彼は一葉を殺したわけではないんです。

 この話が興味深いのは、忠男が殺したわけではないのに、全員が「忠男が悪い」と思ってしまうところです。忠男を含めた登場人物だけでなく、観客のほとんども、これを読んでいる皆さんも、きっとそう感じるはずです。もちろん、僕もそう感じました。忠男が「子どもを堕ろしてほしい」と言ったことがきっかけで、たまたま彼女が死んでしまったというストーリーは、僕らには「忠男が殺した」に近いものに感じられてしまうのです。

 このことをもう少し深く考えるために、「もし一葉が死んでいなかったら」と想像してみましょう。一葉が死んでいなくても、忠男は立派なダメ男です。女を捨てて小説家を目指す甲斐性なしです。一方、一葉はきっと大変だと思いますが、強い母として、子どもを生んで育てていくのではないでしょうか。寛治さんや登山部の仲間たちはきっと、「忠男は仕方のないやつだ」という感じで扱うでしょう。でも、許されない存在というわけではないはずです。なんというかまあ、単なるダメ男です。

 ところが、忠男が「堕ろしてくれたら結婚する」と言ったことがきっかけで、一葉が死んでしまったために、忠男は100%の悪者となってしまいます。この後、寛治さんが忠男くんを完全に許す日が来るとは思えませんし、登山部の仲間たちからも許してもらえないでしょう。そこには「偶然」が関わっています。たまたま一葉が土砂崩れに巻き込まれるという偶然のために、忠男を巡るストーリーは大きく変わってしまったのです。

 忠男も、そのことをよくわかっています。寛治さんにも仲間にも許されないことを知っているからこそ、彼はおそらく贖罪の思いで、山小屋に居着いたのです。言い換えれば、彼は自分の「偶然のストーリー」にがんじがらめに縛られて、山小屋から一歩も動けなくなっていたのです。このお芝居のクライマックスのセリフは、忠男の「俺だけがダメなんですか!」です。そう、彼だけがダメなのではありません。でも、結果的には彼だけが悪いのです。

 寛治さんは忠男を刺そうとしますが、思いとどまります。その代わりに、忠男と不倫していた荷運びの陽菜さんが、忠男の腹をちょっとだけ刺します。翌朝、忠男はその刺し傷を治療することもなく、独りで山を降り、この物語は終わります。しかし、山から離れても、傷が治っても、彼がこのストーリーから解放されることはないでしょう。彼は焼印のように、一生、このストーリーを背負って生きていかなくてはならないのです。自業自得とはいえ、少しかわいそうではあります。

 僕が忠男のことを「愛おしい」と思うのは、僕はある意味では、忠男とたいした変わらないと思うからです。極端に言えば、僕だけでなく、誰もが彼と五十歩百歩ではないでしょうか。もちろん、これをお読みのあなたは、こんなダメ人間ではないでしょう。でも、さまざまなストーリーにがんじがらめになっている、という意味では、僕も皆さんも、忠男のことをそれほどバカにできないと思うのです。

 例えば、僕は「成長」というストーリーに縛られています。「成人発達理論」という学問分野では、僕たちはいつまでも成長できると言います。成人発達理論を極めてわかりやすく説明してくれる加藤洋平さんの『なぜ部下とうまくいかないのか』(日本能率協会マネジメントセンター)を読むと、僕は「こうやって成長したいものだ」とか、「ずっと成長していかなくては」とか思います。それどころか、「以前よりも多少は成長しているな」なんて思ったりもするわけです。

 でもその一方で、あるときふと、「成長というストーリーに縛られている自分」がいることにも気づくのです。正直に言って、10代までは別として、20~30代以降は自分が成長しているかどうか、よくわかりません。書くのはうまくなったと思いますが、それを成長と呼んでいいかどうかわかりませんし、本当のところを言えば、書くのがうまくなったのかどうかすら怪しいと思っています。身体的に起こっているのは、成長よりも緩やかな老化ですしね。そもそも成人以降の成長とは幻想ではないか、という気もします。そうしたときに、トランスパーソナル心理学の日本の泰斗・吉福伸逸さんのような方に、「人は成長しない」「人間の成長というのは大きな幻想だ」「多くの人たちがある特定のところまでくると自分自身で成長を止める作業を始める」『世界の中にありながら世界に属さない』サンガ)などと言われると、俄然そっちが正しいようにも思えてくるのです。

 いずれにしても、成長というのが一種の幻想、一種のストーリーであることは間違いないと思います。でも、自分が成長というストーリーから完全に逃れられるのは、かなり後、相当年を取ったときのことでしょう。ストーリーだ、幻想だとわかったからといって、そこから簡単に逃れられるわけではないのです。むしろ、幻想だからこそ、なかなか逃れられないのだと思います。僕はこれからまだまだしばらく、成長のストーリーに縛られていることを知りながら、やはり何かしらの成長を目指すでしょう。そうであるなら、せっかくだから、いつまでも成長できるという成人発達理論のストーリーを信じたいとも思います。皆さんはどうでしょうか?

 ベストセラーとなった『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ、河出書房新社)で最も印象的だったのは、「認知革命」のくだりです。ハラリさんは「虚構が協力を可能にした」「膨大な数の見知らぬ人どうしも、共通の神話を信じることによって、首尾よく協力できるのだ」と言います。それどころか、神話や宗教だけでなく、国家・法人・貨幣・秩序・ヒエラルキー・家族制度なども、すべて虚構、ストーリーだと言っています。しかし、虚構だから弱いというわけではありません。事態は逆です。「神話は誰一人想像できなかったほど強力だった」「人類の想像力のおかげで、地球上ではかつて見られなかった類の、大規模な強力の驚くべきネットワークが構築されていた」のです。そして、「想像上の秩序から逃れる方法はない」と、ハラリさんは言います。なぜなら、こうした歴史を動かす虚構はすべて「共同主観的」、つまり「多くの個人の主観的意識を結ぶコミュニケーション・ネットワークの中に存在する」からです。誰か一人で逃れたり、変えられたりできるものではないのです。

 僕は、先ほど挙げた成長も、こうした共同主観的な虚構の一部だと考えています。「成功」「承認」「出世」「経済成長」なども同様です。僕たちはそうした無数のストーリーから逃れることはできません。一見逃れたように見えても、完全に逃れてはいないのです。できるのは、縛られていることに気づくことくらいです。

 では、こうした虚構は変わることはないのでしょうか。そんなことはありません。虚構はけっこう変わっています。例えば、日本では終戦時、「鬼畜米英」と言っていた人々が、すぐさまアメリカを礼賛するようになったと言います。それは虚構がガラリと変わったからです。文明開化のときにも同じようなことがあったはずです。その背景には戦争や開国という大きな力が働いていました。今後もそうした大きな力によって、虚構が変わることは十分にありえるでしょう。ただ、独りでは間違いなく変えられません。その中間の「多数の人々」によって変えられるのかどうかは、僕にはまだわかりません。これは実験しがいのあることだと思います。

 こう考えていくと、僕たちを縛るストーリーは尽きることがありません。しかも、僕たちは普段、そのストーリーの大部分に気づいていないか、忘れています。たまに忠男のような存在を見かけると、そのストーリーの存在に気づき、どんなストーリーが自分を縛っているかと考えたりするのですが、そうでもしない限り、多くのストーリーは無色透明なのです。僕はときどき、自分を縛っているストーリーについて考えるのですが、たぶん僕の身体には、まだ気がついていないストーリーが山ほど巻き付いています。そのすべてから自由になれることなんて、絶対にありません。その意味で、僕は、人間にはほとんど自由などないのではないかと感じるほどです。

 僕が忠男をこよなく愛おしく思うのは、彼を見ていると、自分が多種多様なストーリーに縛られていることを感じることができるからです。そんな存在はほかになかなかいません。だから、「悲しみよ、消えないでくれ」を再演するとなったら、僕はまた見に行くでしょう。僕にとって、これは特別な作品です。

 僕はいま、生きるというのは、自分がどのようなストーリーに縛られているかを探り続けることなんじゃないか、とすら思っています。ここまで書いてきたように、縛られているとわかったところで、ほとんどの鎖はほどけません。ただ、縛られていることを自覚するとしないとでは、ずいぶん違うのではないかという気がしています。その鎖の大部分が見えてきたと思えたとき、僕は安心して老いていけるのではないか、と漠然と感じています。